アンパンマンのマーチ
アンパンマンの歌って、こどもの為の歌ではなく、大人が聴くためにあると思う。
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3423/1.html
今一度、問うてみることからもまた、新たな学びがあるかも知れない。
ここからは余談。
美術館へ行くと、たいそう丁寧な説明の書かれた展示がなされた場合がある。
なるほど、丁寧な説明だから、この絵は「こうこう、こういうことなのか」「へぇ~」という具合。
だけれども、それって、その作品を鑑賞するための背景であって、本質じゃないと思う。
また、子供用に、平仮名が多様された説明などのある場合もある。
子供が見るから、という事で学芸員はさぞや苦労したことだろうと思うが、これは慎むべき展示だと私は思う。
子供が「疑問」を感じない展示などに意味はない。
むしろ、子供が背伸びをして初めて届くくらいが丁度いい。
興味があれば自分で調べる。
それは作品を見終わってからでも、である。
そうした環境こそが、文化財を大切にする心を育むと思う。
なぜなら、自分で関心を持つわけだから。
なお、時折、展示を前に蘊蓄を披露する輩がいる。彼女か恋人かに、知識を見せびらかしたいようであるが、これもまた、NGな行為だと思う。
ぶっちゃけていえば、作品の背景を知っているか否かは、料理をどう食事するかの問題と同じではないだろうか。
出来上がった料理をどう切り分けて食するか。
つべこべぬかさずに、さっさと食べろ、という具合である。
素材がどうのこうの、調理法がどうのこうのではなく、自分でよく味わって判断する癖を身につけるべきではないだろうか。
事細かな説明などは、そのあとでいい。
そういう私は、前衛美術に関しては、理解しがたく思っている。
どういう解釈も許される場合が多いが、時折、解釈を見る者へ丸投げした無責任な作品があるからだ。
もっと言えば、「思いつき」で作ったようなもの。
そこに、作者自身の意図すらない。
意味もなく出来上がったものを、さも意味あるかのように「作品」として世に送り出す。
今まで幾つも現代美術、前衛美術を見てきたが、感動したことはほとんど無かった。
これは私が未熟であることもあるけれど、理解しようともしないからという理由の方が大きいかも知れない。
なんにせよ、私には理解しがたい世界である。
話を展示に戻すとする。
つまりは、作品の鑑賞などというものは、いかに「本物」を見て回るかである。
それが贋作だとしても、である。
つまりは、しっかり食べなければ、料理の違いも分からないし、一面から見ただけで全てを理解したものとする過ちを招きかねない。
美術品の鑑賞という類いのものは、そういう意味では、自らの感じるままに想像することが許されるからこその「価値」があると思う。
人生も同じ。
自分が生きてきた中の経験だけでは、結論が出せない。
50年不遇だったとしても、51年目には明るい日がやってくるかも知れない。
そうした意味において、人生というものは己という作品を一生をもって作り上げる行為に等しいのかも知れない。
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