忘れてはならない事がある、ということ
とある方の一連の件は、当人が会社の弁護士を使って、私を調べて連絡をするとのことなので、気長に待つことにした。
わざわざ調べたりしなくても、そういうのならば、こちらから、件の弁護士へ連絡するのだけれど、どうもそれでは当人は都合が悪いのだろう。
そもそもが、実際に起きているならば、当人のカードは発行停止で番号が替わったものを作るなどの措置をまともな思考であれば試みるだろうし、ネット予約での注文などにしても、身に覚えのない物品が送られれば、クーリングオフを利用する。それくらい分からぬ「弁護士」なのだろうか。
自作自演で周囲の耳目を引き、自身が注目を浴びていたい・それが居心地がよいというタイプの人には、己に意見されることを極端に嫌う人がいる。
なぜか。
理由は、
①己が語っている事柄は空想であるので、それに対する意見については、そもそもが被害など存在しないため、アドバイスなどを受けても苦痛でしかないから。
②アドバイスを聞いたといえば、具体例を出さねばならず、嘘に嘘を重ねて自己矛盾が発生することを嫌うから。
③そもそもが、他人の意見などに興味がないから。
といったところ。
①は、無意味な時間を費やすことになり、面倒な気持ちが芽生えるので、適当に濁してその場を遣り過ごす。
②は、自身がどうであるかを理解しているため、継続的に現状維持をしたい。
③は、他人に関心はなく、自己中心的な性格であること。
色々と物事には背景が存在する。
一応、それでも、長文のコメントに私は書いたけれども、意図するところは、
誰かが傷ついて嫌な思いをするよりは、他人の思い遣りには素直に感謝して、せっかくのご縁を楽しく過ごしていただきたいなという思いからだった。
それは伝わっていないかもしれないが、
人とのご縁をいただくことって、自分の時間をつかって、相手の時間をいただく(奪う)ってことなので。
同じ消費する時間なら、相手にとっても自分にとっても、消費した時間以上に価値ある経験や思い出に変えて、お返しできれば、お互いにとってよい時間だったと言えるんじゃないだろうか。
見ず知らずの相手だからこそ、文字の打ち方や言葉の選び方、行間などなどから、読み取る他ない。
そこに少しでもマイナスのイメージが思考されていれば、嫌な文章に感じられるか認めたくない文章になるだろう。
より良く、楽しく過ごせる投稿が続くように願うばかり。
ネットであろうとなかろうと、
人には感謝する気持ちというものは、
忘れてはならないと思う。
綺麗事かも知れないけれど、顔も知らない相手だからこそ、自分自身を着飾るのではなしに、本音を書いて、ありのままの自分を見つめ直す「場」が持てるんじゃなかろうか。
ある意味では、心の助けにもなるだろうし、社会生活する中での糧ともなる「場」だと思うので、大事にしてもらいたいなと思う。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。